「何でもないよ」
「…は?」
さらりと言われて、シュミットは眉間に皺を寄せた。
相手の青年は、左の人差し指で眼鏡のブリッジを上げると、もう一度繰り返す。
「だから、何でもないんだよ。あの子は、ADでも何でもない。普通の子だって言ってるんだよ」
マジックミラーの向こうの部屋で、無心に壁を叩いているエーリッヒに目をやって、介護医希望の青年は言い切った。
「…あの状態でもか?」
シュミットはそれがいささか信じられなくて、エーリッヒの状態を指し示す。
青年は、落ち着いたものだった。
「ああ。アレはわざとさ」
「わざと?」
「そ。自分をADに見せかけてるだけで、実際はいたって健康体。知能もなにもかも、普通の子と一緒だよ」
ひらひら、と診断テストの結果のカルテを弄びながら、青年は呆れたような溜め息をついた。
「彼が何を考えてやっているかは、俺には判らないけどね。…五体満足な体を持っているくせに、あんな風に振る舞うのは…、
感心しないよ」
診断所を連れだって出ると、エーリッヒは一人で駆けだした。
もうそろそろ夕暮れの迫る時刻。
診断所の前にある公園へ入ると、エーリッヒはその中心にある池の中を、じっと覗き込んだ。
シュミットは軽い溜め息をついて、その後ろ姿に声をかけた。
「…エーリッヒ」
名を呼ばれて、銀髪の少年はシュミットの方を振り返った。ただし、視線を合わせようとしないが。
シュミットは少年に歩み寄り、その顎を掴んで上向かせ、無理矢理視線を合わした。
じっと自分を見つめてくるアメジストの瞳に、エーリッヒは薄く笑いを浮かべた。
「……バレてるんですね」
冷たい声だった。
世の中の何ものをも信じない、そんな眼差しと、声。
ひどく怖ろしいものを感じて、シュミットが思わず肩を引くと、エーリッヒはそれにタイミングを合わせて、シュミットの手を振り払った。
そして、池から離れて歩きだす。シュミットの方も振り返らずに、真っ直ぐに公園の奥の、林へ方へ入っていこうとする。
シュミットはその腕を掴んだ。
細い腕だった。力を込めたら、折れてしまいそうなほどに。
「何処へ行くんだ?」
「関係ないでしょう?」
なるべく穏やかに尋ねても、エーリッヒから返るのは感情の宿りようもない冷たい言葉だった。
「関係ないわけないだろう」
「関係ないじゃないですか。放っといて下さい」
なんとか腕を取り戻そうとする少年に、シュミットは強めに声をかけた。
「私は君の家庭教師を言いつかっている。関係ないとはいえないし、放っておくわけにもいかない」
瞬間、青い瞳がシュミットを睨み付けた。
憎しみすら抱いていそうなくせに、どこか嘲笑的な瞳だった。
「まだ貴方に付いて何か学んだわけでもなし。勝手に、保護者面されると迷惑です。放して下さい!」
おかしな組み合わせの二人を、公園内にまばらな人影が物珍しそうな目で見ながら、通り過ぎていく。
シュミットもエーリッヒも、充分に人目を惹くのだ。
それに、先に気が付いたのはシュミットだった。
水掛け論を繰り返しながら、上背と力の勝っているシュミットが、エーリッヒを無理に引きずっていく。
エーリッヒはそれに必死になって抵抗していたが、やがて二人の姿は、公園から出て、見えなくなってしまった。
診療所の駐車場に止めておいた、自分の車の後部座席に、シュミットはなんとかエーリッヒを押し込んだ。
まだなにか叫んで、車から出ようとするエーリッヒを取り敢えずシートベルトで暴れられないようにしておいて、
シュミットは前にまわり、車のエンジンをかける。
車が動き出してしまうと、エーリッヒは諦めたように大人しくなった。
とたんに、車内には沈黙が流れる。
「………どうして、嘘をついたりした?」
少ししてから、ふいに沈黙を破ったのはシュミットの方だった。
きつくではないが、後ろ手にシートベルトで縛られているエーリッヒは、軽くシートに背をもたせかける。頭をシートの上にのせて、
別に--と微かに答える。
「僕がどんな奇態を貴方に晒そうと、問題ないでしょう? 貴方は一介の家庭教師でしかないんですから」
また、沈黙が返ってくる。
流れる窓の外に目を向けていたエーリッヒが、今度は声を発した。
「…貴方は、どうして」
「ん?」
「どうして、こんな面倒くさいことをしたんですか? …今までの人は、しなかったのに」
ふと、その言葉が気になって、シュミットは質問には答えずに問い返した。
「今まで家庭教師についた連中にも、同じことをしていたのか?」
「ええ」
バックミラーに映るエーリッヒは、酷薄な笑みを浮かべていた。
シュミットは視線を前方に戻す。
エーリッヒの静かな声が、耳に入ってきた。
「彼らが来るたびに、5回もAD患者の真似をしてやれば、彼らは簡単に辞めていきましたよ?『息子さんの教育は、とても私では
役不足です』って言って…。父さんは怒らなかった。数日後にはもう、新しい人が来た。そうやって、入れ替わり立ち替わり、
いろんな人が来た。どの人も辞めてった。…………貴方みたいに、僕に診断を受けさせようとする人間なんか、居なかった。
なのに、どうして?」
おそらく、辞めていった連中は、エーリッヒがADだということを、彼の父親に認めさせるのが恐かったのだろう。エーリッヒの父親は
貿易商で、、結構富豪であった。金持ちの癇癪を、皆は避けたのだろう。
そして、面倒を押しつけられるのを厭った。自分の息子の欠点を上げられて、怒らない親などいないだろうから。
だから、エーリッヒは家庭教師として自分の傍に来る人間を、片端から追い返し続けた。
最も穏やかな方法で。
「…勿体ないと思った」
「…は?」
シュミットの答えに、エーリッヒは眉を寄せた。
バックミラーから伺えるシュミットの表情は、一部だけといえ、平生と変わらなかった。
シュミットは言葉を続ける。
「ADならば、それなりの教育を受けねばならないんだろう? それを施されず、ダメだと決めてかかられて埋もれさせるには、
勿体ないと思った。それだけだ」
「勿体ないって、何が…?」
「君という存在が」
数秒、間を置いて。
エーリッヒは、くすくすと笑い出した。
しかし、目だけは笑っていなかった。
射るような視線が、バックミラー越しにシュミットへ向けられた。
「あなたも父さんと同じようなことを言うんですね。…父も、僕を惜しんだ。僕が優秀なものにはならないだろうということを、
ひどく惜しんだ。だから、僕にお金をかけたんです。教育費として、莫大なお金を出して、僕を一流のものに躾けようとした」
エーリッヒは目を閉じて、シートの上に倒れた。
「……お金さえ出せば、イイコが育つと思ってた。あの人は、望み通りの子になると思ってた。…莫迦みたいですよね。
そんなワケ、ないのに」
エーリッヒはまた、くすくすと笑いだした。それは、愚かな親に向けての嘲笑だった。
瞼を上げて、ちらと、ブルーグレイの瞳がシュミットの方を向く。
「ね、先生。僕のこの銀髪、綺麗でしょう?」
シートの上の、乱れた銀の髪。
シュミットは、ああ、と答えた。
「これも、僕の父さんが欲しかったから作ったものなんですよ。ほんの少し、DNAに手を加えて、僕が僕になる前に、髪の色を
変えたんですよ。……遺伝子整形って、いうんです。無意味なことにお金を使うんですよね、金持ちって。………彼らの心が知れない」
自分もその富豪の息子であるはずなのに、エーリッヒは吐き捨てるようにそういった。
ひどく、自分の父を憎んでいる様子だった。
「…お祖父様も同じ。僕のこと、ペットとしか思ってないんです。体の良い操り人形だとしか思ってないんです。だから、僕を家に
閉じこめたりして…」
それきり、エーリッヒは黙ってしまった。
しかし、その言葉は、シュミットにエーリッヒの境遇を知らせるには充分だった。
エーリッヒは、学校に行かされもしなかったのだ。どんな人間と交わるかもしれない、俗世の機関に入れるよりも、家の中で、
専属の家庭教師に勉強を教えられる方が、彼のためになると、彼を「より良いもの」に育てられると、エーリッヒを育ててきたのだ。
それに、彼はずっと反抗してきたのだろう。
だから、彼は人間不信にすらなっている。
シートの上に身を横たえているエーリッヒを見て、やっぱり勿体ないと、シュミットは心の内で思った。
やがて、エーリッヒの家に着いた。
シュミットはエーリッヒの腕の戒めを解いて、車から降ろしてやった。
エーリッヒは、屋敷に入る門のところでクルリとシュミットを振り返る。
「…先生、また、来るんですか?」
「ああ。今度はきっちり勉強を教えに来るよ」
笑って言ってやれば、エーリッヒもにっこりと笑って。
「僕は貴方が嫌いだから、できれば来て欲しくないんですけれど」
「…エーリッヒ」
車の前部窓から、シュミットはエーリッヒを手招く。
不用意に近づいたエーリッヒを、ふいに引き寄せて、かすめるようにキスをした。
瞬間、弾かれたように、エーリッヒはシュミットの腕を振りきる。
距離をとり、睨み付けてくる青い目を、シュミットは余裕のある笑みで見つめて。
「言っただろう? …それは勿体ない」
捨て台詞のようにそれだけ言って、シュミットは車のアクセルを踏んでいた。
その車の背を、忌々しげに見送って、エーリッヒはクルリと踵を返した。
そして、門に入ってすぐのところで、何度も何度も、唇を擦った。
赤く、腫れて痛むほどに。
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