嫌い。




「はぁ? お前、あの仕事受けたのか?!」

 食堂で、目の前の席に陣取っている金髪の友人の、大袈裟な反応に、シュミットはああ、と答えた。

「なんでだよ。お前、サイドジョブしなきゃならないほど金欠ってワケじゃないだろ?」
「まぁな」
「なら、どうして」
「…特にこれといった意味はないさ。ただの気紛れだ」

 ただの気紛れ、で行動を起こしたりしない悪友の正確を知り抜いているブレットは、微かに溜め息をついた。
 アメジストの瞳の奥を、探るように見つめる。

「…何を考えている?」
「何も。言っただろう」
「下手な噂は免れないぞ。学長の孫だって話じゃないか」

 ただでさえ、シュミットはこの大学内で目立つ存在だ。ここで、学長の孫と、何らかの関わりがあることが判れば、シュミットに
反目している連中がそれをネタに叩いてくることはほぼ間違いない。
 特に、最近対立の激しい学部内の争いに、支障をきたすのは目に見えている。

「お前、自分の立場を判っているのか? 医学部内の論争は、お前がいなければ…」
「収束する。私に反対する連中の勝利に終わってな。それだのことだ」
「それだけのことって、お前…」

 学会に発表してもおかしくない論文を、シュミットはすでにいくつか書き上げていた。今回の論争の火種も、その、シュミットの
新発見の一つだ。この勝負での勝利は、世界への跳躍を見せるかもしれないのだ。シュミットはそれを、それだけ、と言い捨てる。

「…よっぽど、その孫が美人なのか?」

 ブレットは、シュミットがそういう方面では行動しないことを知っていて、尋ねてみた。
 シュミットは女性に不自由する身ではなかったし、第一、その方面に興味はないと来ている。この大学内一の美人と称されている
女性に告白されても、にべもなくフッた男だ。…そのせいで、彼女のファンにもまた、恨まれていたりする。

「さぁ、まだ会ったことがない」

 対するシュミットの返事は、至極あっさりしたものだった。
 ブレットは、呆れたように溜め息をつく。

「会ったこともない人間に、勉強を教えるって言うのか?」
「中学の基礎教科らしいからな。大丈夫だろう」

 その子の学力が、平均を大きく上回っているとは聞いていない。どっちかといえば、成績は低い方にはいるという話のはずだ。
 医学部の生徒ではあるが、シュミットには余裕があった。

「今日、帰りに先方の家に寄ることになっている。まぁ、どうしても馬が合わないようならすぐに断るさ」







 シュミットの通う大学の、学長の孫という少年は、元もと父子家庭だったのだが、最近父親を亡くし、学長に引き取られたのだという。
飲み込みは悪くないのだが、性格的に多少問題があるらしい。だから、素行に問題があるかもしれないが、どうか良く取りなしてやって
くれと、シュミットはそう言い含められた。
 少年の部屋へ行く途中の、幅の広い階段を登りながら、シュミットは、このアルバイトを断ろうかと考えていた。
 二親を亡くし、精神的に問題がある、と言われて育てられた子供の例は、今まで幾人か見ていた。しかし、そうやって親類に
引き取られたり、施設に入れられた少年や少女が、いかにスレやすいものか、シュミットは理解していた。子供の指導は、シュミットの
性に合わない。
 階段を昇りきって、一番奥の部屋の扉を、軽くノックする。
 返事は返らず、ただ、ゆっくりとドアが開かれた。
 その姿を目に留めて、シュミットは、多少の驚きを隠し得なかった。
 褐色の肌を縁取る銀の髪。長めの睫毛の下の、ブルーグレイの瞳。そのどちらもが、シュミットが今まで見たどんな人間よりも、美しい。
 どこか、猫…とりわけアメリカンショートヘアー…を連想させる容貌の少年だ。
 部屋の中にシュミットを招き入れて、少年は、すぐに椅子を引いて机に付いた。
 少年一人に与えられるには多きすぎの感のある部屋には、高級そうな絨毯が敷かれていて、大きな机は、一目見ただけでアンティークと
しての価値があることが見て取れた。無造作に壁に掛かっている絵も、どれも、色合いや構造が素晴らしい。
 それらの品をひととおり眺め回してから、シュミットは少年の方に目を向けた。
 少年は、数学の参考書を机の上に置き、パラパラと本の端を指で弾いている。特にどのページを開こうという気はないらしい。ただ、
流れていく紙の動きだけを目で追っていた。

「……君、」

 声をかけても、やはり返事は返らなかった。本で遊ぶ手も、止まらない。
 シュミットは手を伸ばし、その本の端がめくれないよう、上から押さえた。

「止めた方がいい。本が傷む」

 ぴし、と押さえられた本の角を親指の腹で払って、少年は興味を失ったように、今度はシャーペンを取り、ヘッドをノックして芯を長く
出すことに勤めだした。
 わざと目を合わせないようにする少年の行動から、シュミットは、彼はAD(自閉症障害)患者かもしれない、と思った。この障害のある
患者は、対人的相互関係や意思伝達の発達に障害があったり、著しく異常だったりする。そして、活動と興味の範囲が顕著に制限されて
いるのである。
 患者なのならば、シュミットにも対処の仕様はある。しかし、彼は精神科ではないし、子供の面倒を見たりするのも苦手だ。
 シュミットは一つ、溜め息をついた。
 重度のAD患者には、普通の学習は出来ない。しかるべき環境で、しかるべき人物がすべきなのだ。
 …一度、診断検査を受けさせた方が良いかも知れない。
 シュミットは、大学の友人の中でAD、ADHDについての効果的な教育や学習について研究している人間を思いだした。彼は、
診療所でプロの医師の下に付き、実践しながら学んでいるはずだ。今日はもう8時になるし、無理だが、今度都合のつく日にでも、
連れていってみようと、シュミットは考えた。

 銀髪の少年は、出した芯を戻し、一定の長さで折る遊びに夢中になっていた。机の上に、綺麗に列べられた折れた芯の長さが、
ほとんど寸分違わないのに、シュミットは静かに感嘆した。

「…見事だな」

 芯を2本取って、親指と人差し指で両端を挟む。そうすれば、二つが同じ長さなことが、はっきりと解った。
 ふと、青い瞳が動いた。
 シュミットの方を見ている。瞳ではなく、手のあたりに視線は彷徨っているが。
 膝をついて、すっと視線を合わせてやれば、目は驚いたように丸くなった。

「なぁ、今度、時間取れるかな?」

 視線を逸らした少年に、シュミットは小首を傾げて問いかけた。
 微かに、少年は頷く。

「じゃあ、ちょっと付き合ってくれないか? 会わせたい人がいる」

 もう一度、少年は頷いた。どうやら、言うことは判って貰えるらしい。
 シュミットは顔に優しい笑みを浮かべる。

「私の名前はシュミット。…君の名は?」
「………エーリッヒ…」

 落ち着いた声で、少年は言った。
 まるで、障害など感じさせないような声で。
 少年の、濃い色の肌に零れる銀髪が、たとえようもないほどに綺麗に見えた。
 シュミットが教科書に手を伸ばすと、エーリッヒは逃げるように椅子から立って、窓の方へと走っていった。
 シュミットはその背を見ながら、まぁ、今日は良いか---と、微かに溜め息をついて、その後を追った。


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