つまらない。
 面白くない。
 ねぇ、僕は、一体誰のために勉強しているの?
 何のためにしているの?
 判らない。
 見つからない。
 目的も。
 目標も。




 凍り付いた湖面のような色の、あたたかさを含まない瞳が自分を強く睨んでいる。
 それを知った上で、シュミットは参考書を繰る手を止めなかった。
 手元のノートには、多少乱雑な、それでもしっかりと答えを導く数式が並んでいた。

「次は、…46ページだな」

 ページを開いて示してやれば、逃げるように青い瞳は宙に彷徨う。
 溜息。

「エーリッヒ」

 名前を呼べば、ちらりと視線がこちらを向く。
 だが、すぐに逸らされる。
 もう一度、名前を呼ぶ。
 そうして問題を示してやれば、何も言わずに課題に取り組む。
 その繰り返し。
 飲み込みは悪くない。最初に言われた。その通りだった。エーリッヒは、一度やり方を示してやれば、
応用問題まで解くだけの学力を持っていた。だが、それはあくまで機械的な行動であり、「やらされている」
ことだった。

 …つまらないだろうな。

 シュミットは、ノートにペンを走らせるエーリッヒを見ていてそう思う。
 だが、どうしてやればいいのか、それが判らなかった。
 エーリッヒはひどくシュミットを嫌った。もっとも、深く関わり合いになりたくないからこそ、大人しく示された問題を解くのだろうが。
 一緒に、診療所に行ってから3週間。シュミットは週に2回のペースでこの家に通っている。
 エーリッヒはさんざん渋ったが、祖父に説得され、仕方なくこの家庭教師につくことになっていた。
 エーリッヒはシュミットが嫌いだった。
 シュミットが自分に、必要以上に近づこうとする理由が判っていたからかもしれない。…いや、判っているつもりだった
からかもしれない。自分の父親と同じだと。父親が自分に金をかけたのは、未来に自分がかけた以上の金を生み出す道具に
するため。シュミットだって、同じだ。シュミットにとってエーリッヒは、金蔓でしかない。
 …エーリッヒは、そう理解していた。

 ぱたん、とエーリッヒはペンを置いた。
 シュミットがノートに目を通している間に、エーリッヒは椅子から立ち上がってドアの方へ歩いていこうとする。
 その腕を、シュミットは掴んだ。

「まだ終わってないだろう」
「トイレですよ」

 振り返らずに答えれば、後ろから大きなため息が聞こえた。

「…エーリッヒ。そう言って、君は何回私の前から逃げたかな?」

 ………6回。

 エーリッヒはぱっとシュミットの方を振り返ると、柔らかく笑った。

「貴方が通ってこなくなるまで、幾度でも」

 挑戦的なその態度に、シュミットにも笑みが浮かぶ。
 ただ、エーリッヒのものとは違う、意地悪なものだったが。

「なら、君が私に懐いてくれるまで、私はずっとここに通うよ」

 エーリッヒの顔が、一瞬苦々しく歪んだ。
 それは、悲壮ですらある表情だった。
 だが、すぐにいつもの無表情に、自分をコントロールする。
 エーリッヒは自分の感情を制御するのが非常に上手いと、シュミットは知っていた。
 底が読めない瞳。特に、けして自分の方を向いてくれないから、彼の本心が分からない。

「先生」

 自分の腕を掴んでいるシュミットの手に視線を合わせて、エーリッヒは言った。

「貴方が僕の家庭教師を止めてくれるなら、貴方の言い値で払います。だから、もう僕に関わらないで下さい。迷惑です」 
「生憎私はそう金に不自由する身じゃないんだ。その条件は呑めないな」

 エーリッヒの提案をさらりと受け流して、シュミットはエーリッヒの方を見つめた。
 エーリッヒの視線は相変わらず、逸らされたままだ。

「…残酷なんですね。迷惑だと言っているのに…」

 微かに呟いて、今度はエーリッヒが溜め息をついた。

「……お金が目的じゃないなら、どうして貴方はここに通うんですか? …他に、どんな利用価値が僕にあるって言うんですか?」
「利用価値?」

 シュミットの顔が、怪訝に歪んだ。
 エーリッヒはうすらと笑みを浮かべている。

「…利用価値、ね」

 なぜ、彼が自分を嫌っていたのか。
 その理由が、シュミットにはやっと理解できた。
 …結局、エーリッヒは誰かに心を寄せることを怖がっているだけ。懐いた相手が自分を利用していただけだと
知るのが恐いのだ。
 …もっとも、怖がるのは、すでにそれを経験しているからなのだろうが。

「…なぁ、エーリッヒ。私の話を聞いてくれないか?」
「お断りします。口先だけの言葉なんて、聞きたくないですから」
「…厳しいな」

 シュミットはゆっくりと椅子から立ち上がった。

「…私がここに通うのは、君が気に入っているからだよ。……君の利用価値、こういうのはどうかな?」

 エーリッヒの顔が怪訝に歪む暇もなかった。
 長い、形のいい指で顎をすくわれ、口付けられる。
 びく、とエーリッヒは肩を震わせ、体を引いた。
 それで、シュミットがエーリッヒを逃がすはずもない。大声を上げないようにキスで口を塞ぎながら、柔らかい絨毯の上に、
少年の体を押し倒した。

「んっ…! んんっ…!!」

 シュミットの体の下で、エーリッヒは身を捩る。
 必死で抵抗しても、すでに大人の体であるシュミットに、たかだか中学生のエーリッヒが敵うはずもない。

「んぅっ?!」

 シャツの裾から入り込んだシュミットの指に脇腹をなぞられて、エーリッヒはビクンと身を竦めた。


 ……嫌だ…っ!!


「つっ!」

 シュミットの束縛が、一瞬弛む。
 その隙を逃さず、エーリッヒは弾かれるようにシュミットから逃げ出した。

「おっと…!」

 立ち上がろうと片膝立ちになっていたエーリッヒを、今度はうつ伏せに組み伏せる。

「やっ…!」
「痛かったぞ、エーリッヒ。…慰謝料、払ってもらわないとな?」

 口の端に、薄く血が滲んでいた。さっき、エーリッヒが噛みついたせいだ。
 エーリッヒはなんとかシュミットから逃げようと、もがいた。

「言ってるじゃないですか、お金ならいくらでもっ…!」
「金には不自由しない。私も言っているはずだが?」

 首筋に唇を押しつけると、エーリッヒは微かに細い悲鳴をあげた。
 ブルーグレイの瞳が、肩越しにシュミットを睨み上げる。

「この変態色ボケ教師っ…!! 離せッ!!」
「君は私の話を聞いてくれなかった。私が君の言うことに従う義理はない」

 シュミットの手が自分の服を脱がそうとしているのを感じながら、エーリッヒは自分の部屋の構造を悔やんだ。この部屋は
完全防音だ。どれだけ叫んだって、誰も来ない。


 ……やっぱり。
 やっぱり、自分の味方は自分だけなのだ。
 自分以外の誰も、自分を助けようなんてしてくれない。
 誰も、自分のことなんて判ってくれない。


「……っふ…っ…」

 抵抗の止んだ子供の体から、聞こえてきたのはくぐもった嗚咽だった。
 シュミットはピタリと動きを止めた。

「…エーリッヒ…?」
「…っく……見る、な…っ!」

 泣きたくて泣いたわけではなかった。
 むしろ、絶対にシュミットに弱いところなど見せたくなかった。
 だから、今、事実泣いていることが悔しくて、また情けなくて、エーリッヒは毛足の長い絨毯に顔を埋めてしゃくり上げた。

「………悪かった。今日は、帰るよ」
 そっと、シュミットはエーリッヒの上から退いた。
 そしてゆっくりと立ち上がると、部屋を出ていった。
 エーリッヒは涙で歪んだ視界でそれを見送って、掠れた声で呟いていた。

「…二度と、来ないで…っ!」


 心のどこかで、気付いていたのかもしれない。
 彼に陥落してしまいそうな、自分の弱い心に。


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 こっちも長くなりそうです。