シュミットがマンションに帰り着いたのは、もう午前も3時になろうとしている頃だった。
 今現在一人暮らしをしているシュミットは、その大きすぎる部屋に入って、電気をつけた。
 とたんに、白い蛍光灯の光が、広いリビングを照らし出す。

「…お金には不自由してないって、嘘じゃなかったんですね」

 エーリッヒは多少の驚きをもって、そう呟いた。

「信じてなかったのか」

 苦笑しながら、シュミットはエーリッヒを部屋に上げる。
 家に帰るのを嫌がったエーリッヒを、シュミットは仕方なく自分の家へと連れて帰ってきた。
 …もっとも、いつまでも傍にいたかった気持ちと、下心は誤魔化しようがないけれど。
 エーリッヒは青い瞳を、スーツの上着を脱いでいるシュミットに向けた。

「お金に不自由しない人が、僕の家庭教師につくなんて考えられなかったものですから」
「私は気紛れだからね」

 解いたネクタイと共に、上着を無造作にソファに投げて、シュミットはキッチンの方に向かう。
 目を細めてその動作を見ていたエーリッヒは、すたすた歩いていってソファから上着を拾い上げた。
 そうして、きょろきょろ部屋の中を見回す。

「…ハンガーとか、ないんですか?」
「ん、ああ。向こうの部屋にあるけど。気にしなくていいよ」
「皺になります」

 きっぱり言い切ると、エーリッヒは上着を抱えたままベッドルームに続くドアをくぐっていく。

「…変なところ神経質なんだな」  

 自分用のコーヒーと、エーリッヒ用の紅茶を淹れて、リビングに戻る。
 二つのカップをテーブルの上に置いてから、エーリッヒの後を追った。
 ベッドルームでは、エーリッヒが高いところに掛けてあるハンガーに手を焼いているところだった。
 微妙に指先の触れる位置にあるそれに、一生懸命手を伸ばす少年の背に、愛しさがこみ上げてくる。
 シュミットはそっと近づいて、背後からハンガーをとってやった。

「ほら」

 差し出すと、エーリッヒはそれをひったくってくるりと背を向けてしまう。
 よほど、先ほどの動作を見られたのが気にくわなかったのだろうか。


 彼の持っているのは、そんな、護りたくなるくらい可愛いプライド。


「貸して。どうせ、掛けられないだろう?」

 後ろを向いているエーリッヒをなだめるように、優しく声をかける。
 エーリッヒはそっと振り向くと、上着を掛けたハンガーをシュミットに渡した。
 決まりが悪そうに、俯きながら。 
 それを見て、シュミットは軽く溜め息をつく。

「また、私を見てくれない関係に逆戻りか?」

 びく。
 肩が震えて、エーリッヒはそっとシュミットを見上げた。
 上目遣いのその視線に、怯えを見て取って、シュミットはしまったと思った。
 この少年は、誰よりも拒絶されることを恐れている。それを知っていたはずなのに、彼を不安がらせるようなことを言った。

 この子の味方でいたいのに。
 この子を判ってやれる存在になりたいのに。

 シュミットは心情を隠して、にこりと笑った。
 エーリッヒを不安がらせないように。
 ハンガーをクローゼットの上部に掛けて、そっとエーリッヒの背を押す。

「さ、飲み物を用意した。リビングに戻ろう」
「…うん」

 小さく頷いて、エーリッヒはシュミットの言葉に従う。
 リビングで温かい飲み物を口にすると、エーリッヒはふぅ、と落ち着いたように息を吐いた。
 透明な琥珀色の液体を見つめるエーリッヒの顔に、湯気が当たって拡散していく様を、シュミットは見ていた。

「…それを飲んだら、シャワーを浴びて寝たらいい。少しでも睡眠をとっておいた方が、君の場合無難だ」

 カップに口を付けたままで上げられた視線に、シュミットは頷いて見せた。

「明日、大学に行く前に家まで送ってやるから」
「……や」
「え?」

 フローリングの床に視線を落としたエーリッヒは、はっきりと言った。

「いやです。あんな家に、もう帰りたくない」
「嫌って…、エーリッヒ」
「いや。帰らない」

 参ったな…、シュミットはそう言うと、ストレートの前髪をかき上げた。

「どうして嫌なんだい?」
「……もしも、貴方だったら、…何一つ不自由がないくせに自由もない、そんな場所に帰りたいと思いますか?」

 ほとんどの我が儘は叶えて貰えるけれど、自分の力では何一つなす事の出来ない場所。
 それは、やはり大空にあこがれる小鳥の鳥篭。
 鳥の飼い主たちは美しいその姿を愛でながら、彼が鳴くのを待っている。
 美しい歌声で囀る日を待っている。

「僕は思わない。…だって、あの人たちには僕の代わりなんていくらでもいる。僕は唯一の存在じゃない。
 結局、次のペットをどう生かすかの実験道具にされてるだけなんだ」
「だけど、君はそこでしか生きていく術を知らない。家へ帰るんだ。世間は君が思っているほどに甘くはない」
「…そうでしょうね。僕は世間をあまりに知らなさすぎる。知っていることと言えば、」

 エーリッヒの口元に、薄い笑みが浮かぶ。


「どんな最低な生活をしてでも、生きていこうと思えば生きていけるということだけ」


「---エーリッヒ!!!」

 カタンッ。
 テーブルに身を乗り出してエーリッヒの腕を掴んだ。
 コーヒーのカップが倒れて、フローリングに黒い沼を作る。
 エーリッヒはそれでも遠くに居た。
 世間知らずの少年が、たった一つと言って悟っていることはあまりにも危険なこと。
 養って貰うことしか知らないと言うのなら、養ってくれる人を捜すだけ。
 それが一体どういう生活を指すのか。

「莫迦なことを考えるな、エーリッヒ! お前はまだ子供なんだ。親に…、保護者に護ってもらっていればいいんだ!!」

 エーリッヒはほんの少し、悲しみを湛えた嘲笑を浮かべた。

「………僕は、やっぱり貴方が嫌い。貴方が言っていることは、正しいようで正しくない。僕は認めてもらうために
 動き出すんです。一人で生きていけるように」
「それは違う! それはお前の努力じゃない!! お前が傷つくだけだ!」
「あの家にいたって何も変わらない!!!」

 エーリッヒは叫んで、ぎゅっと目を瞑った。

「あの連中の思い上がった目を醒まさせるには、僕が彼らの方針からは思いつきもしない方向へと歩いて行くしかないんだ!
 …もっとも、それでも彼らにはほとんど痛手には成らないのでしょうけれど。でも、彼らの英才教育のなれの果てが
 僕のような生き物であると、思い知らせてやれるだけでも構わない」 

 二度と、自分のような思いをする子供が彼らによって育てられないように。

「…なら、私に飼われてみるか?」
「…え…?」

 濃い紫色の瞳が、エーリッヒに向けられていた。
 それは嘘や冗談の混じらない澄んだ色だった。
 エーリッヒは、目を逸らす。

「私がお前の家庭教師に選ばれたのは、あの学内での成績のためだろう。本当に、彼らの英才教育に刃向かいたいなら、
私を利用するのが最も効果的だと思うが?」

 テーブルを回って、ソファのエーリッヒの隣に座る。
 逃げようとするエーリッヒの肩に腕を回して、耳元で囁く。

「…お前が望んでいる生活がどんなものか、身をもって教えてやるぞ?」 


 他の誰かのものになるくらいなら。
 いっそ、自分で壊してやる。
 護りたかった綺麗な花でも、自らで踏みにじってやる。


「……いい、ですよ…」
「…ッ?!」

 エーリッヒの答えが予想と180°違うものだったことに、シュミットは息を詰まらせた。
 エーリッヒは視線を逸らせていた。
 その、首筋まで赤く染まっている。

「…私のことが、嫌いなんだろう? 嫌いな人間に、簡単に身を預けるのか?」
「……何処の誰かも知らない人よりは…、先生の方がいいです」
「しかし…」
「どうして、躊躇うんですか。自分から持ちかけたくせに」

 くす。
 エーリッヒは可笑しそうに笑って、シュミットの頬に自分の頬をすり寄せた。

「悪いとか、済まないとか思わないで。貴方の存在を僕が利用するように、貴方も僕を利用すればいいだけ」

 眉間に皺を寄せて、考え込むように黙ってしまったシュミットの鼻先に、エーリッヒは小さくキスした。

「…貴方は僕の傍にいると言ってくれたでしょう。嬉しかったんです。だから、僕は貴方が嫌いだけど、好きです。
 ……だから、貴方のものになってあげます」


 感情の宿らない行為に罪悪感を覚えるなら、これを言い訳にすればいい。
 嘘じゃないから。
 信じろとは言わないから、貴方の言葉を信じさせて下さい。


 モドル                    10  11  12  13 …  ご意見ご感想


 やっとそういう関係に持ち込めそうだ。こいつら莫迦だからナァ(お前だよ)。