「う……ん」
象に圧しつぶされる悪夢を見ていたエーリッヒが、覚醒して一番に認めたのは端整な顔だった。
ぎく、とエーリッヒの身体は一瞬強ばったが、開く気配のない瞼に落ち着きを取り戻す。
ゆっくりと、昨日のことを思いだした。
シュミットの上着からは、変わらず女物の香水の匂い。
それが気持ちが悪くて、エーリッヒは身を捩った。
ドサッ! と音がして、シュミットの体が床に落とされる。
「……痛い」
落下した身体から、そういう意味の呻きが聞こえた。
エーリッヒは何も答えず、ソファの背もたれに額をくっつけた。
ゆっくりと身を起こして、シュミットはさらりと前髪をかき上げる。
…頭も痛い。
時計を見れば、すでに9時を回っている。
別に、今から大学に行っても何の差し支えもない。
ない、が。
「…行かなくて困るわけでもない」
呟いて、自分に背を向けている少年に手を伸ばした。
肩に手を置けば、ピクリと反応が返る。
それで起きていることを確認できる。
「おはよう、エーリッヒ」
優しい声で挨拶をしても、少年はたぬき寝入りを決め込んでいる。
ふ、と溜め息をついて、シュミットは小さく身を丸めているエーリッヒの、耳の横に口付ける。
「何を拗ねてるんだ?」
「………」
あくまで無視を決め込むエーリッヒに、シュミットは再び溜め息をつく。
それから、立ち上がってバスルームの方へと消えていった。
エーリッヒは、ただ黙っていた。
紫の瞳を、彼の笑顔を、見たくなかった。
私も、お前が嫌いだ。
耳の奥に、残っている声。
それは、嬉しいことの筈だった。嫌っている人に、嫌われているというのだから。
さっぱりしていていいと思う。そういう関係でも。
なのに、ひどく苛々する。
傍にいてくれると言った彼が、自分を嫌いだったから?
そんな裏切りなんて、もう慣れているはずなのに?
自分に近づく人間なんて、ろくなものじゃないって、知っていたのに?
近づいたのは?
………信じてたから?
信じたかったから?
「莫迦だ」
呟いて、自嘲の笑みを浮かべようとした。
だけれど、それは叶わず。
じわりと熱くなった目頭を、ソファに押しつけた。
がちゃりと、バスルームのドアが開く音。
足音は、エーリッヒの傍へは来ずにまた遠くなった。
………暫くして。
非常にばつの悪そうな顔をしたシュミットが、ソファの方へと戻ってきた。
「……エーリッヒ。もしかしてお前、昨日何も食べてないのか…?」
シュミット一人の生活に慣れていたため、頭が回らなかった。買い置いていたはずの食べ物がすでに底を
ついていたことも、忘れていた。
答えない背中に額を当てる。
「…ごめん」
謝罪の言葉に、いたたまれなくなる。
「……それで怒ってるのか…?」
恐る恐るといった風に尋ねるシュミットに、エーリッヒはがばっと起きあがった。
支えを失ったシュミットの顔が、ぼふ、とソファに沈む。
「…覚えてないんですか、昨日の夜のこと…?」
「昨夜…?」
シュミットの口調からして、そうに違いない。
暫くシュミットは何事か考えていたが、やがて、あまり覚えていない、と言った。
「僕に、嫌いと言ったことも…?」
なんだかだんだん腹が立ってきて、語尾が震えた。
シュミットは本当に覚えていないらしく、上目遣いにエーリッヒを見やる。
「…言ったのか?」
「言った」
「…他には? 何かしたか?」
「自分勝手で我が儘で、ヒネクレてて嘘吐きだから嫌いだって、言った。だから、僕の傍にいるのは、
僕に意地悪をしてるからだって。僕の嫌いなものを目の前に置くことで、僕に意地悪をしているんだって」
二日酔いで痛む頭で、シュミットはその言葉を聞いていた。
エーリッヒの声は、震えている。泣いたのか、目が赤い。
「正直に言うと、僕のことなんか嫌いだって。嫌いだって、言った」
「……拗ねていたのは、そのせいか?」
「拗ねてなんかなっ…!」
何かを言おうとしたエーリッヒの身体は、ふいに抱き締められていた。
抵抗する力の怒らないほどに強く抱かれて、エーリッヒは目を見開いた。
「……身勝手じゃないか」
言葉は無機質なくせに、行動や声音は驚くほどに優しい。
シュミットの胸に顔を埋める形になっているエーリッヒには、声は出せなかった。
出す気もなかったけれど。
「身勝手じゃないか。私には嫌いだとさんざん言っておきながら、私がお前に嫌いと言ったら拗ねるなんて」
沈黙が流れる。
時計の、秒針の音が聞こえる。
カーテンの向こうからさす、陽の光は穏やかに。
部屋の空気は暖かい。
「…認めろよ」
絞り出すように、シュミットは言った。
「認めてしまえよ、私のことが好きだと…!!」
耳元で、囁かれる。
「私はお前のことが、嫌いになるほどに好きなんだから…」
自分勝手で我が儘で、ヒネクレてて嘘吐きで。
だけれど、どうしてそうなったのか、そうならざるを得なかったのか、判るんだ。
そうして、腕の中の温もりの、本質を知りたいと思った。
嫌いと言われて。
傷ついて。
それでも、近づきたいと思ったんだ。
傍にいたいと、思ったんだ。
昨日、随分飲んだ後、混濁する意識を抱えてそれでもここへ戻ってきたのは。
何色が見たかったから?
抱き締めている身体が、抵抗しないことに、シュミットは首を傾げた。
よほど、怒っているのだろうか?
そっと体を離して、俯いたエーリッヒの頭を撫でる。
「…ごめん。嘘だよ、冗談だ。お前が私のことを嫌ってることなんて、百も承知だから。だから、怒らないでくれ。
…私がお前のことを好きなことだけ、本当だと思っててくれればいいから。な?」
エーリッヒは、何も答えない。
シュミットは、微かに溜め息をついた。
「…朝飯、食べに行こう」
シュミットは言って、立ち上がる。
玄関まで歩いて、未だソファにかけたままのエーリッヒに、右手を差し伸べた。
「行こう」
ゆっくりと、エーリッヒは顔をあげて。
そっと、歩いて。
その手を、取った。
近くの喫茶店に入って、席に着くまで、その手が離されることはなくて。
「うーわー青天の霹靂」
再び手を繋いでマンションまで帰ってきたところで声を掛けられ、シュミットは驚いて顔をあげた。
マンションの前で、ひらひら手を振る金髪の悪友。
シュミットは眉間に皺を寄せた。
「…こんなところで何をしている?」
「指名手配犯の確保」
びし、とシュミットに人差し指を突き付けるブレット。
その手を払いのけて、シュミットはサングラスを掛けたブレットの顔を睨み付けた。
「冗談など聞いていないだろう」
「あながち冗談でもないぜ? …学長の孫、誘拐したのお前だろ?」
サングラスの下の瞳が、エーリッヒに向く。
エーリッヒはじっと、ブレットの顔を見ていた。
「何処でそんな無責任な噂を聞いたんだ?」
「無責任な噂か? お前が連れてるそれは何だ?」
顎でエーリッヒを指し示すブレットに、シュミットは
「若い燕」
などと、しれっと言いのける。
「うーわー。お前その言葉の使い方間違ってる」
「なら稚児とでも言い換えようか?」
「どっちにしても最低だなお前」
…家庭教師に入った家の子に、教え子に手を出すなんて。
そういう意味であることは明白だったので、シュミットはふ、と笑みを浮かべる。
「この子が望んだんだ。…そろそろ後悔しているかも知れないけどな」
「していません」
エーリッヒの瞳が地面を向いて、そっけない言葉が返される。
そして、繋いだ手に力が込められる。
シュミットの心臓が、ひとつだけ大きな音をたてた。
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若い燕…→年上の女の愛人である、若い男。稚児…→(5番目の意味)男色の相手方である少年。