「………ふ、」

 自分の吐息で目が覚める。
 薄いシーツと硬いベッド。自分の部屋ではなく、また先生の部屋でもない。
 エーリッヒはそれを半無意識下で認識する。
 ゆっくりと、腕を天井に向かって伸ばした。
 冷たい感じのする白い天井。目に映る、自分の腕は青い薄い布に包まれていた。手術着のような、
その衣服。エーリッヒは、やっと首を巡らせて周りを伺った。
 小さな部屋だった。ベッドとカーテンと椅子、壁と天井とドア。そのくらいしか、目に付くものがない。
 …どこなのだろう。
 どこでも良かったけれど。

 ジャラ、

 身を起こそうとして、エーリッヒは自分の足が鎖でベッドに繋がれていることを知った。

「…ちっ、」

 憎々しげに、エーリッヒはその鎖を睨み付けた。
 自分がどこへ連れてこられようと興味は湧かなかったが、自分を束縛するものは嫌いだ。
 エーリッヒは仕方なく、腕を伸ばしてカーテンを掴んだ。
 体を動かすと、自分の奥に、シュミットの熱が残っているのが判った。腰に走る痛みとそれが、
昨日のことを思い出させる。冷たい瞳と、いつか言われた冷たい言葉が、自分を束縛する鎖よりも痛かった。
 エーリッヒは掴んだカーテンを捲って、窓の外を視界に映す。小さな芝生の、庭が見えた。四方を
コンクリートで囲まれた、まるで取り残されたような空間だった。コンクリートの間を、何かのパイプが
つないでいる。それが、まるで止まり木のようで。
 まるで、……まるで、鳥篭のような空間。
 背後で、ドアノブの回る音がした。
 エーリッヒが振り向くのと、ドアが開くのはほぼ同時だった。
 現れたのは、白衣を纏った女だった。エーリッヒよりも、5歳ほど上だろうか。綺麗な黒っぽい髪と、
深い紺色の瞳。綺麗な弧を描く眉と通った鼻筋。白い肌と、服の上からでも判る整ったボディライン。
美人と言う言葉がしっくりくるような人間だった。

「おはよう、エーリッヒ君」

 にこりと魅惑的な笑顔を浮かべて、女は言った。女は手に、ポットとカップの乗ったトレイを持っていた。
 エーリッヒは女を睨み付けながら、答える。

「おはようございます、誘拐犯さん」

 ゆっくりと近づいてきた、女は笑みを浮かべていた。瞳の中には、好奇と興味と侮蔑があった。それを、
一つも隠そうなどとしていなかった。
 細い白い指を、エーリッヒの頬に触れさせる。

「誘拐犯は、あなたの家庭教師じゃなくて? 彼が、貴方をここへ運んできたのだから」
「先生…?」

 銀の眉が寄せられる。

「先生は、何処です?」

 震えないように注意しながら、エーリッヒはゆっくりと言った。
 女は、興味の瞳で笑っていた。

「今頃、大学で研究でもしているのではないかしら。あなたを私に引き渡してすぐに、車で立ち去ったから」

 ズキンと、胸が痛んだ。

「僕を、…どうするつもりですか」

 間近で見た女の瞳は、紺色とは少し違った。
 女は、エーリッヒの唇を人差し指でなぞる。その指の動きが、エーリッヒの抵抗する気を失わせた。

「私は、手荒な真似をするつもりはないわ。あなたは大切な実験体だから。大切な、サンプルだから」

 酷薄な笑み。
 ゾクリと、エーリッヒの背筋を恐怖が走った。
 女の指が、今度はエーリッヒの銀の髪に滑った。
 さらさらと女の指の間を流れる銀髪が、まるで雪解け水のようだった。

「ところで、エーリッヒ君。あなたは、あの男について知りたくない?」
「…あの男?」

 誘うように動く、女の赤い唇。エーリッヒは、逸らしていた視線を女に戻した。

「シュミット・ファンデルハウゼン・フォン・シューマッハについて。あなたにばかり私に協力して貰うのは
不公平だから、私の知っている情報をあなたにあげるわ」

 不公平?
 エーリッヒは嘲笑を浮かべた。ベッドに鎖で繋いで、小部屋に閉じこめておいて不公平も何もないものだ。
どうせ、力ずくでも協力させるくせに。
 何が知りたい? と尋ねる女に、エーリッヒは何も答えなかった。
 女は慣れた手つきで、エーリッヒに紅茶を淹れる。角砂糖を2つ放り込まれて差し出されたカップを、
エーリッヒは黙って受け取った。
 一口、口を付ける。
 シュミットの部屋で飲んだのと同じ、マスカットフレーバーのするダージリンだった。

「…あなたは、あの男に優しくして貰ったかもしれないけれどね。覚えておいた方が良いわ。あの男は
放し飼いよりも、鎖を付けて繋ぐ方が好きよ」

 女はそう言って、誰もいない空間を睨め付けた。
 何かを、誰かを、憎んでいるような瞳だった。

「…貴方が、先生の何を知っているか知りませんけれど」

 エーリッヒは、何故か女のその表情を見て、どこか安心した。



「僕の知っている先生は、優しくて素敵な人ですよ」 



 女は、まるで憐れむようにエーリッヒの頭を優しく撫でた。

「そう。そうかもしれないわね。昔から、仮面を被るのが上手な人だから」

 嫌いだとはっきりアピールしながらも全く礼を失しない、あの男の社交術には舌を巻く。他人を
拒絶しているくせに、驚くほど話を円滑に進めることができる。
 だからこそ、女…アリシアはシュミットに、冷たい記憶しか貰わなかった。

「…エーリッヒ君。私は、あの人から君を貰うために、こんなふうに言ったのよ。「エーリッヒ君をくれるなら、
あなたの居場所を誰にも言わないであげる」って。判る? あの男に、静かな生活を守りたいならあなたを
売れって、そう言ったのよ。貴方は、あの男に売られたの」

 エーリッヒが顔をしかめた。
 顔を伏せて。
 口元に笑みを浮かべて。
 泣きそうな瞳で、止めて下さいと呟いた。
 ほんの数週間前までは、見事なほどのポーカーフェイスをまとえていた少年が。
 アリシアは、手加減する気など無かった。

「昔からそうなのよ。あの人は、自分の生活を守るためなら何を売っても構わないの。心がないのよ、あの男には」
「………違い、ます…」

 エーリッヒは、止められない震えを声に響かせて、言った。
 揺れる青い瞳は、悲しそうだったがそれでも絶望してはいなかった。

「自分を守るために、心を閉ざすしかなかったんです。そうやって自分を守るしかなかったんです」

 いつか、シュミットは言っていた。「君と私は似ている」と…。
 エーリッヒは、自分以外を拒絶することで自分を守っていた。
 シュミットは、自分以外を信じないことで自分を守っていた。
 だから、判る。彼と自分は同族なのだ。だから、…傷を舐め合うことができる。癒すことはできない
かもしれないけれど、慰めることくらいはできるのではないだろうか。

「先生に、会わせて下さい」

 アリシアは、何も言わずにエーリッヒを見下ろしていた。薄闇の中で紺色に見える瞳が、
シュミットのことを話す時と同じような憎悪に彩られていた。
 その手が、エーリッヒのカップを持った手に掛かる。
 ぐい、と強くその手を押される。

「なっ…!?」

 宙を踊ったカップの中身が、エーリッヒの頭からまともにかかる。カップがシーツの上に転がった。
冷めかけた紅茶は火傷をさせるものではなかったが、砂糖の混じった液体は、あとからベタベタと
不快になるに違いない。

「…汚れちゃった、ね…?」

 アリシアの口元に、妖艶な笑みが浮かんだ。

「…ひ…」

 本能的に恐怖を感じ取って、エーリッヒは悲鳴を喉に詰まらせた。伸ばされる手に捕まらないよう、
後ずさる。だが、鎖によって行動範囲を狭められているエーリッヒに、逃げる場所などなかった。
 アリシアの指が、濡れた銀の髪に絡んだ。

「綺麗な…銀髪なのに、ね…」
「触ら、ないで…」

 体が、意志とは反してがくがくと震える。
 アリシアは笑っていた。

「触らないわけにはいかないわ…貴方には協力して貰わなくちゃ…。あの男を出し抜くためにも…、
私達の研究に協力して頂戴、エーリッヒ君…」

 女の唇が、震え続けるエーリッヒのそれに押しつけられる。
 唇を割って入ってきた柔らかい舌が、エーリッヒのそれを絡め取る。
 ふわりと、甘い香りがした。
 シュミットが、いつか酔って帰ってきた夜にさせていた匂いだった。
 それを意識するよりも早く、強力な睡魔がエーリッヒを襲う。紅茶の中に仕込まれていた。睡眠薬が回ったのだ。

 ……せん、せ……

 遠のいていく意識の中で、シュミットの声を聴いた気がした。










「…っクソっ!」

 突然フリーズしてしまったパソコンを睨み付けて、シュミットは苛立ちを吐き捨てた。
 今朝から、何をやっても上手く行かない。
 あの屋敷からエーリッヒを誘拐して、アリシアに渡したあの時から。
 昨日の暴力の痕も、涙の跡も、なにひとつ洗い流すことをせずにエーリッヒを売り渡した。
 自分の生活の平穏と引き替えに。
 あの、無垢な裸体を。
 恨んでいるだろうか、自分を。
 …当然だろう。あれだけ好きだと言っておきながら、簡単に裏切ったのだから。
 もう一度会うことがあったとしても、彼はきっともう二度と目を合わせてくれない。近づかせてくれない。
 嫌いだと泣き叫ぶのだろう。
 折角、…嫌いだと言われない関係になれたのに。好きになって貰えたのに。
 シュミットは机の前から、資料が山積みになった黒いソファに移動した。資料をその辺りに薙ぎ払って、
ソファに仰向けに寝転がる。腕で視界を覆えば、耳の奥で、エーリッヒの悲鳴がリフレインする。昨日の
悲鳴は消えることなく残っていた。それが、シュミットを罪悪感から少しは救っている。
 二度と会いたくないと、聞こえるから。

 …だれか、

「…ッ」  

 シュミットの耳の奥で、悲鳴以外の声が聞こえる。
 銀髪の少年の、声が聞こえる。


 …誰か、僕を愛してくれるかな…? 何の取り柄もない僕でも、誰か好きになってくれるのかな…?
 僕を、愛して貰えるかなぁ…?

 金色の鳥篭の中で、膝を抱えて蹲っている少年が見える。
 顔を膝に埋め、ピクリとも動かない少年の檻の周りに、色々な大人が見えた。
 男もいる、女もいる。皆、好奇と期待の目で少年を見ていた。
 いらついたかのように、時々篭に拳を打ち付ける大人もいた。その度に、檻は少しずつ小さくなっていった。
 やがて、篭は少年をやっと覆うほどの大きさまで縮んでしまった。大人の手が、少年の体にかかった。
 少年はびくりと体を竦ませて、顔をあげた。
顔をあげたのは、紫の瞳と栗色の髪の少年だった。

「─────!!!!」

 がばっと身を起こして、シュミットは辺りを見回した。
 乱雑に散らばった資料。フリーズしたままのパソコン。部屋の隅に追いやられた、破壊された
2台のパソコン。マンションとは対照的に、モノで溢れた部屋。
 シュミットはぐしゃりと自分の艶やかな髪をかき混ぜた。
 振り下ろした拳は、紙の資料の上でぐしゃりと音をたてた。
 息を吐き、目を細めて、シュミットは動かなくなった。何かを見透かすかのような瞳。
 篭の中の小鳥は、逃げ出すことを強く願っていた。下らない大人達の、思惑から外れる生き方を望んでいた。
 昔は。ほんの小さな頃は、見捨てられるのが恐くて頑張っていた。努力すれば、認めてもらえると思っていた。
良くできれば、誰からも何も言われずに済むと思っていた。
 だが、そんなのは夢でしかなかった。
 行動には制限が付きまとった。ある時驚いて周りを見渡してみたら、自由など一つもなかった。
 シュミットは心を閉ざした。相変わらず秀才の仮面は被り続けたが、周りの人間に対する態度は拒絶になった。
 そうしてある日、逃げ出した。
 父親が用意していた大学を蹴って国外に逃亡し、この大学へと逃げ込んだ。ある程度以上有名にならなければ、
見つかるはずもないだろうと思っていた。
 …なのに。
 アリシアは何処で、どうやって自分のことを探り当てたのだろう。
 シュミットがエーリッヒと関わり合いになっていると、どうして知れたのだろう。

「シュミット」

 突然声とノックの音がして、ドアが開けられた。
 シュミットは、入ってきた人物を一瞥して視線を外した。
 ブレットは、軽く肩を竦める。

「良くない知らせを持って来ましたー」

 棒読みでそう言うと、ブレットはシュミットの前に陣取った。

「この間この研究室を荒らしたのとおそらく同一の連中が、」

 シュミットは遠くを見ていた。

「お前のお気に入りを誘拐したそうです」
「?!」

 きっ、とシュミットはブレットを睨み付けた。

「違う。あの連中とは関係ない」

 ブレットは口元に笑みを浮かべていた。
 何もかもお見通し、というその表情が、シュミットは気にくわなかった。

「エーリッヒとあの連中は関係ないかもしれないが、お前とアリシアに関係がないとは言えないだろ」

 アリシアの名を出されて、シュミットは一瞬目を見開いた。そのすぐ後に、侮蔑の眼差しをブレットに向ける。

「…他人のことを嗅ぎ回るのが趣味なのか、ブレット? 余計な詮索は止めて、すぐに私の前から消えろ」
「いいのか? 後悔するぞ?」
「後悔だと?」

 するものか。エーリッヒを売ってさえ、そんなものはしなかった。なら、何をしたとて後悔なぞ。
 自嘲にも似た表情に、ブレットは構わずに話を続ける。

「アリシアはお前を、憎んでるんだぞ」
「…そうだろうな。あいつと私に共通する思い出で、楽しいものなど一つもないのだから」
「エーリッヒが無事にお前の手に帰ると思っているのかシュミット!!」

 残酷なほど冷静なシュミットに、ブレットは叫んだ。
 シュミットはブレットを睨み付けた。
 十数秒が、沈黙のうちに流れた。

「お前が何を知っているのかは知らない」

 沈黙を破ったのはシュミットの声だった。

「だが、」

 静かな声だった。しかし、声の中には憎悪が見えた。

「私達の事情にあまり首を突っ込むな。私にはもう、終わったことだ」

 そう言って、シュミットはもう一度ソファに横になった。薄汚い天上が見えた。

「終わったこと? お前があの子を引きずり込んだくせに、何が終わったことだ。エーリッヒに取っちゃ、
まだ終わってない。連れ戻せシュミット、あの子が泣く前に!!」
「ウルサい…」

 シュミットは目を閉じた。
 儚げに笑いながら、エーリッヒが泣いていた。


 モドル                    10  11  12  13  …  ご意見ご感想


 アリシアとブレットの性格がおかしいよ…!