「…最近機嫌良くないか? お前」

 ブレットは、思ったことをそのまま悪友に尋ねた。思い過ごしかもしれないとは思いつつも。
 栗色の髪の悪友は、感情を隠すのが上手い。
 おそらく、多くの人間はこの男の微細な変化になど気付いていないだろう。
 ブレットがそれに気付けたのは、ひとえに悪友として、彼と過ごしてきた時間の長さ故だ。
 栗色の髪の青年は、ちらりと紫の瞳をブレットに向けた。

「そう見えるか?」
「いいや、あんまり」
「……、よく分からない奴だな」

 デスクに付いたままのシュミットは、眼鏡を外して椅子を回した。
 戸口の所に立っているブレットに、そうして向き合う。

「入ったらどうだ?」
「いいさ。すぐに戻るからな」

 ブレットとてもそう暇な身ではない。
 それを知っているシュミットは、眉根を寄せてブレットを見た。

「それで、お前はそんなことを言いに来た訳じゃないんだろう? さっさと用件を言え」
「ただのお節介さ。…えてして、学部内のいざこざは他学部の方で噂になってたりする。…とくに、
 噂の中心人物には伝わりにくいもんだ」
「さっさと言えと言っているだろう? まわりくどい言い方をするな」
「相変わらずの唯我独尊ぶりだな。…お前が、中学生くらいの子供と歩いてるのを目撃した奴がいる。
 一ヶ月くらい前だ」

 ぴく、とシュミットの肩が揺れた。
 紫の瞳が鋭い輝きを放つ。
 それは、今までブレットが見たこともないような色だった。
 ブレットは、報告に来て良かったと思う。この男には、警戒心が足りなさすぎる。

「珍しいこともあるもんだよな、子供嫌いのお前が、子供連れで歩いてるなんて。……お前はよくも悪くも
有名人だからな、シュミット? それを考えに入れて行動しろよ」
「…あの子は、私とは…、私のいざこざとは関係ない」
「そんなの、理由になると思うのか? お前に敵対している連中が、全て正々堂々勝負してくるんならいいが。
 ……それでは、お前に絶対に敵わないと知っているヤツらは? どういう手段を講じてくると思う?」
「……ッ」

 つ、とシュミットの頬を冷たい汗が滑り落ちた。
 シュミットにとって大切なものができれば、それは同時に彼の弱点にもなる。
 正々堂々の学説でシュミットに敵わないと理解している連中が、もしエーリッヒに手を出したら…?
 そのとき、シュミットはどうする? 何が出来る? その連中にひれ伏すのか。おそらく、エーリッヒを
見捨てることなど出来ないから。
 ……いや、もっとも、危険なのは。
 エーリッヒと、シュミットに反目する連中が組むことだろう。
 エーリッヒはシュミットを嫌っている。シュミットの言うことを聞くよりは、その敵対者に協力することを選ぶだろう。
 もしも、言葉巧みにエーリッヒに言い寄られたとき、それをはね除けることが出来るか?
 彼を、拒絶することが出来るか?

 小さい頃の自分とそっくりの境遇にいる、彼を。

「……あの子はほとんど家の外には出ない。連中に接触する手だてはない」

 なのに、どうしてこんなに不安になる?
 鼓動が、早くなる。

「問題ないならいい。…悪かったな、時間を割いて余計なことを言いに来て」
「いや、……感謝する」

 背を向けたブレットに、シュミットは素直に礼を言った。
 ふ、と口元をゆるめ、ブレットはシュミットの研究室から出ていった。

 シュミットは暫く、ドアを見つめていた。
 ドアの向こう、廊下の向こう、壁の向こう。
 ずっとずっと向こうの、どこか遠いところを。

 エーリッヒが気になっている。
 最初は、その綺麗な容姿に惹かれた。
 そして、態度に興味があった。
 境遇を知れば、それが自分に酷似していることに気が付いた。
 彼の孤独を、癒してやりたいと思う。
 少しくらい、強引な手段をつかってでも、自分を見ている人がいるのだと、知らしめてやりたかった。
 頑ななあの少年の心は、そうでもしないと解ってくれない。
 シュミットが、財産やそんなモノでなく、エーリッヒ自身に惹かれていると言うことなど。
 …解っては、貰えないのだ。








「…帰っていない?」

 取り次ぎの女中からそれを聞いたシュミットが色を失ったのを見て、学長である老人は苦笑を浮かべた。

「時々あるのだよ、こういうことが。あの子は、家が嫌いらしくてね。あれの父親が生きていた自分にも、
 随分脱走されたらしい。まぁ、明日には帰ってきているだろうから、今日は、済まないが…」

 エーリッヒの気紛れから、シュミットに無駄足を踏ませたことを悪いと思ったのか、それともシュミットがもう
家庭教師についてくれないことを危ぶんだのかは判らないが、学長は心ばかりの金額をシュミットに握らせた。
 シュミットはそれをちらりと見て、学長の肥えた掌へと押し返した。

「受け取れません。では、また来ますので」

 それだけ言うと、シュミットはさっさと屋敷の門を潜った。車のおいてあるガレージの方へは行かず、宵の闇に
沈み始めた道を走る。
 シュミットの頭の中には、ブレットの忠告が回っていた。

 もしも、彼の身に自分のせいで危険が及んだとしたら。
 おそらく、立ち直れないだろうと思った。





 ふ、と息を吐いた。
 公園の中はとっくに真っ暗で、外灯だけが所々を照らしていた。
 時計の針は、23時を廻ったところを指していた。
 青白い光に照らされて、ブランコの上の銀髪を煌めかせる。
 エーリッヒは、1ヶ月ほど前にシュミットと来た公園で、時間を潰していた。
 歩いて来たから、結構な時間はかかったけれど、それはエーリッヒにとっては都合のいいことだった。
 どうせ、誰も探しに来やしない。
 脱走した最初の頃は捜索者が探しに来ていたけれど、回数を重ねればそれは打ちきられた。次の日の昼には
屋敷へ戻るということを、彼らが学習してからは、一人の追っ手を差し向けられたこともない。
 最初から、咎めもなかった。
 つまり、それだけの価値なのだ。
 自分など。
 最初の方に捜索されたのだって、誘拐されていないかを確認するためだけに。
 自分などにこれ以上、お金をかけるのは勿体ないから?
 余計な出費は差し控えたいから。
 だから、彼らは動かなくなった。

 …もし、今本当に誘拐されたら、お祖父様はどうするだろう。
 身代金を用意するだろうか?
 それとも、僕を見捨てるだろうか?
 僕は金の卵。
 判ってる。
 だけど、孵ってなんかやらない。
 道具になんて、なってやらない。
 絶対。

 夜の闇の中、静まり返った公園にいれば、世界には自分しかいないと信じることが出来た。
 裏切られることも突き放されることもない。
 信じられる自分だけの世界。

「……?」

 ふと、エーリッヒは顔を上げた。
 自分の名が、どこかで呼ばれた気がしたからだ。

「…まさか、ね」

 誰も来るはずない。
 そんな非効率的なこと、誰もしない。
 待っていれば籠の中に帰ってくる小鳥、誰も追いかけようなんてしない。

 しかし、静寂の中、それはだんだんはっきりと聞こえてきた。
 誰かがばたばた走ってくる足音と、はっきりエーリッヒの名を呼ぶ声。
 その声が、けして有り得ない人物のものであったことに、エーリッヒは躰を硬直させた。

 …ありえない。
 どうして?
 あれだけ嫌って、あれだけ逆らったのに。
 嫌いになられたって当然なくらい、自分勝手に振る舞ってやったのに。
 なのに、どうして? 
 ……僕が、お金を持っているから?



「エーリッヒ!!」

 公園の入口から、エーリッヒの姿を視界におさめたシュミットは叫んだ。
 弾かれたようにブランコから立ち上がり、エーリッヒは逃げ出す。

「待て…っ!!」

 慌ててシュミットは後を追う。
 近年希なほどに走ってきたから、もうそろそろ足が言うことを聞かなかったが、それでも少年を見失うまいとする。
 暗い林の中に駆け込んだエーリッヒを追って、シュミットもその中に足を踏み入れた。
 まばらに生えている細木が、それでもシュミットの視界を邪魔して、エーリッヒの姿を隠していた。
 足を止め、ハァハァと荒い息を吐く。
 ぐい、と汗を拭ってその辺りを見回す。
 しんと静まり返った林の中。

「…エーリッヒ。何処だ? いるんなら、出ておいで」

 ゆっくりと足を進める。
 がさ、と近くの茂みが揺れた。
 そこから、銀線が宙を舞う。

「このっ…!」
「っわ…!!」

 がばっとその物体に飛びかかって、一緒に地面に倒れ込む。
 長い芝の上に二人して転がった。

「い、たた…」

 エーリッヒは転んだ弾みにぶつけた後頭部を押さえながら、起きあがろうとした。
 だが、その体の上にシュミットが覆い被さっていたのでは、起きるに起きられない。

「……退いて下さい」

 言ってみるが、シュミットはピクリとも動かない。

「…あの、先生…?」

 恐くなって、エーリッヒはそっとシュミットの肩に触れた。
 動かない。
 胸に置かれたシュミットの頭の重みが、不安をますます掻き立てる。

「…冗談、止めて下さい。先生。…怒りますよ? 起きて、退いて下さい!」

 ドク、ドクと小さな心臓がゆっくり早く動くのを、シュミットは感じていた。  

 彼の不安。
 判る。
 …小さな頃の私と同じ。
 恐かった。
 捨てられることも、見限られることも。
 だから、私は良く出来ようとした。
 彼は、何をしただろう?
 何をして、認められようとしたのだろう?

「せん、先生ッ! 起き…っ!」

 ぎゅ、とシュミットの肩を掴んだエーリッヒの手に、力が加わった。
 震えている。
 その青い瞳は、暗闇の中でもはっきりと判るほどに怒りに燃えていた。

「…勝手なコトして、勝手に逝かないでくれませんか? ねぇ、先生? 莫迦なこと、止めて下さい。こんな
 中途半端な人間に優しくしたって、何の見返りも期待できないんですよ? ……誰にも言ってないけれど、
 父の財産は全て処分してあるんです。こうやって、屋敷を飛び出してしまえば、僕のためなんかにお祖父様は
 一銭も出そうなんて思わないでしょう。…僕は一文無しなんですよ。何もない。お金も、気立ても、容姿も、
 何一つ人より優らない。こんな僕に、何をしたって無駄なんですよ。…なのに、そんな僕に関わって怪我とか
 しないで下さいよ!!! ふざけるのもいい加減にして下さい!!!!!」

 叫んで、エーリッヒはシュミットの頭を抱え込んだ。
 クセのない栗色の髪に唇を寄せて、莫迦、と呟く。
 その背に腕を回して、シュミットはごめん、と言った。
 一瞬驚きに大きく震えたエーリッヒはそれでもシュミットの頭を離さなかった。

「………エーリッヒ、苦しい」
「…死んじゃえばいいんです、貴方なんて」
「ひどいな…」

 頭を捩って、横を向く。
 そうすれば、エーリッヒの鼓動が、もっとはっきり聞こえた。
 鼓動は早い。さっきより、大分落ち着いている気はするけれど。

「……心配した?」

 尋ねると、エーリッヒは別に…、と言った。

「私は心配だったよ、君が」  
「…親切の押し売りは止めていただけませんか? 僕はそんなこと、頼んでません」

 言葉とは裏腹に、シュミットの髪を梳くエーリッヒの指の動きは、至極優しい。

「うん。見返りなんて期待してない。私が捜したかったから、探しただけだよ」

 その気持ちのいい感覚に身を任せながら、シュミットも答えた。
 エーリッヒは、静かになる。
 夜の風が、林の梢を鳴らした。

「…君は、私とよく似ているよ」

 シュミットは囁くような優しい声で呟いた。

「誰かに愛して欲しくてたまらないから、小さい頃の私は一生懸命勉強した。認めて貰いたくてね。…君は、
 認めて貰うために何をしている? こんな子供じみたこと、いつまでやっているつもりだい?」  

 エーリッヒは黙って、シュミットの髪を梳いていた。

「私のような人間になれとは言わないよ。こんな、自分しか信じられないような人間になって良いはずがない。
 でも、君だって気付いてるはずだ。君のしていることでは何も変わらない。何も手に入れることは出来ない。
 ただ、失っていくだけ。そうだろう?」

 エーリッヒは空を仰いだ。
 今日の星は、いやに明るく輝いている。
 月のない夜空。

「………どうすれば、良いって言うんですか?」

 やっと、エーリッヒは口を開いた。
 言葉には棘が含まれていた。
 それを、シュミットは取り除こうとする。

「…私にも、判らない。だけど、そんなに怯えることはないと思う。素直になるところから始めたって、構わないさ。
 自分に何が出来るかなんて、その後でいい」

 そう言って、シュミットはくすくす笑った。

「私が言っても、ちっとも説得力がないな」

「…………もしも、素直になれたら、」

 ともすれば聞き逃しそうになるような声。
 エーリッヒの指は止まっていた。
 シュミットは口を噤んで、その声に聞き入る。

「…誰か、僕を愛してくれるかな…? 何の取り柄もない僕でも、誰か好きになってくれるのかな…?
 僕を、愛して貰えるかなぁ…?」

 シュミットは顔を上げた。
 見たこともないほど、儚げに微笑むエーリッヒが、そこにはいた。
 表面的には冷たくて、人を鼻であしらって拒絶する。だけど、本当の彼は、抱き締めれば壊れてしまいそうな
ほどに脆い。
 シュミットはそっと、その頬に触れた。
 少年の瞳は頼りなげに揺れている。

「私がいるよ」 

 揺れる瞳を自分に固定しようと、シュミットはこつんとエーリッヒの額と自分の額を触れあわせた。

「私は君が勿体ないと言っただろう? 君に惹かれてるんだ、私は。お金とか、そんなものではなく、君自身に。
 …もっと君が知りたい。君のこと、もっと教えて欲しい。急に変えろなんて言わないさ。少しずつでもいい。…傍にいるから」

 青い瞳に映り込んだ紫の瞳。
 紫の瞳に映り込んだ青の瞳。
 お互いに、その混色の美しさに見とれていた。



 誰も、一人じゃない。
 愛して貰っていることに、気付くのは難しいけれど。


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 関係が一歩進展した(汗←予想外)。